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空箱

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日常

 小刻みなバイブレーションが机を叩く音に目を覚ます。一度、二度、断続的に震えて止まったから恐らくはメッセージアプリだろう。カーテン越しに差し込むのは夜明けが近いことを知らせる青い光。非常識な時間の着信に重い瞼を擦りながら端末を取ると、思った通り「たすけて」の短い一文。どこ?とこちらも簡素な文字を送り返せばすぐさま地図アプリのURLが返って来たので開く。アーデンの家から車で20分程度の繁華街だった。過る複雑な想いを溜め息一つで吐き出してベッドから降りて車のキーを掴む。ちゃんと隠れられる場所にいて、と一文を送り返す事も忘れずに。  
 メッセージを送ってきた相手……レイヴスを迎えに行くのはこれが初めてでも無い。月に一度か二度の頻度で呼び出されるのでトランクには彼女を迎えに行く時の為の水やタオル、羽織れるものや救急セット等が入れっぱなしになっている。今日はどんな状況になっていることやらと考えそうになって頭を振る。どんな状況であろうと驚かない、咎めない、諭そうとしないのが鉄則だ。破ればきっと彼女は気紛れな野良猫のようにアーデンから離れて行く。それは出来れば避けたかった。  
 アプリに従い辿り着いた場所は治安の良くない繁華街の一角。薄明かるくなってきた空の下では出歩くような人影も無くしんと静まり返っている。一番拡大した地図の上に赤く表示されたマーカーは目の前のビルを指しているが、果たして中にいるのか外にいるのか車からはわからず、仕方なく降りる。冬の名残の冷たさがひやりと通り抜けて行くのを感じながら辺りを見回していると、がらりと軽い金属が転がる音。半ば確信を持ってそちらへと近付けば、ゴミバケツにもたれ掛かるようにして座り込んだレイヴスがいた。乱れてはいるが、整えれば人前に出れる程度には服を着ている事にひとまず安堵し、それから傍らに広がる吐瀉物に眉を寄せる。  
「怪我は?」  
 問いかけに緩く首を振った後、のろりとあげられた顔は明らかに泣き腫らしたのがわかるような酷い顔だった。  
「怪我は無い、けど、たぶん、薬、盛られた」  
 きもちわるい、と再びゴミバケツへと寄り掛かるのに漏れそうになった溜め息を飲み込む。  
「……とりあえず、車に乗って。お水あるから。俺の家で良いんでしょ?」  
 こくりと頭が揺れた後、無言でアーデンへと両腕が伸ばされるのを迎え入れるように屈み込んで抱き上げる。華奢な身体は随分と冷えていた。知らない男の精の臭いもする。今度こそ飲み込みきれなかった溜め息を吐いて車へと戻った。 
 
 自宅に戻り、レイヴスを抱えたまままずはバスルームへと向かう。車の中で一眠りした彼女は先程よりはマシな状態になったようだったが、床に下ろしても服を脱がせてもただ為すがままにぼんやりとアーデンを見ているだけだった。自分で動く気の無い身体をどうにかこうにかして露になっていく豊満な体は、至る所に生乾きの体液をまとわりつかせていれば情欲よりも哀れみを誘う。平常を装いながら最後に下着を下ろす。飲み込みきれずに溢れ出した大量の精液が乾く事も出来ずにどろりと重い糸を引いていて思わず眉を潜める。  
「……今日は何人だったの」  
 ただ自分の股から流れ出す精液を眺めているだけだったレイヴスがとろりと瞬いてからゆっくりと首を傾ける。  
「三人……四人?記憶が飛んでいるから、わからない」  
「いつものクラブ?」  
「たぶん……最初はトイレだったと思う。でも車の中?何処かの部屋?でもしていた気がする」  
 他人事のように話す言葉に随分長い時間犯され続けていたのだと知る。何度も場所を変えている辺りからして相手にした人数も随分多い事だろう。以前にもレイヴスと寝た事のある相手かもしれない。凌辱と言うに相応しいどれだけ酷い行為であってもレイヴスならば絶対に警察沙汰にしないと確信が無ければ、今時ポルノビデオでも見ないような精液まみれのまま放り出される事は無いだろう。普通の感性を持った女性ならば逃げ出すような酷いセックスでも、レイヴスは喜んで受け止める。そんなことをしていればいつかもっと酷い目に合うのでは無いかと心配し、そして諦める。言葉では彼女に届かない。あまり深く考えないようにしてレイヴスへと意識を戻しざっと全身を見たが、小さな擦り傷や内出血はあるものの目立った外傷は無い様子にひとまず安心することにしてアーデンも服を脱ぎ捨てる。成人した女性を洗うのにはどうしたってずぶ濡れになってしまうからとそうしただけだったのだが、裸になったアーデンを見上げたレイヴスはことりと首を傾けると表情一つ変えずに「するの?」と問うのだから頭が痛くなる。  
「君がしたいなら、するけど。でも綺麗にしてからね」  
「後でする?」  
「君がしたいならね。俺は眠いからとっとと君を洗って寝たいんだよ」  
 そう、と返事ともつかぬ声を聞きながらコックを捻り、湯が暖まったのを確認してからレイヴスにシャワーを当て、それきりアーデンを眺める置物になった彼女の全身を清めていく。干からびた体液がこびりついた髪を解し、肌に張り付いたものを優しく拭い去り、染み付いた臭いをソープの香りに塗り替える作業はまるで大型犬を洗うのと同じような心地だ。暴れないだけ犬よりマシだが心を抉る虚無感が比べ物にならない程に辛い。
「それじゃあ、中も洗うから膝ついて、お尻こっちに向けて」 「……このままでいい」  
「そういうわけにもいかないでしょ」  
「……空っぽになってしまう」  
「また俺が満たしてやるよ」  
「今、アーデンが欲しい」  
「他人のザーメンまみれのトコに入れたく無いって言ってんの」 渋々といった様子ながらようやく大人しく尻が差し出される。叩かれたのか真っ赤に腫れた尻を一撫でしてぐいと肉を割り開く。幼子のように一本の毛も生えていない綺麗なそこには閉じきれなくなっただらしない入り口が二つ、ひくひくと誘うように蠢いては白いものを覗かせていた。  
「ほら、いきんで」  
 バスタブの縁に捕まったレイヴスがン、と返事のように喉を慣らすと、どろどろと白く泡立ったものが勢い良く押し出される。良くもまあこんなに溜め込んだものだと感心してしまうくらいに、何度も何度もレイヴスが力を入れる度に溢れては内腿を伝い落ちて排水溝へと吸い込まれて行く塊を無機質に見送る。幾度か繰り返し、何も出てこなくなった頃に女性器へとゆっくり指を差し入れると彼女の口からはぁ、と少し熱っぽい吐息が漏れた。酷使されて腫れぼったく充血した粘膜がきゅうきゅうとアーデンの指に絡み付いてくる。なるべく刺激しないように中を掻き出し指を引き抜こうとしても逃すまいと尻を押し付け、もっと深くへと誘うように手首を捕まれる。  
「邪魔しないの」  
「だってアーデンの指、気持ち良い」  
「それはありがとう」  
 まだ何か言いたさそうに向けられる視線を黙殺してもう一つの穴にも指を入れて同じように掻き出す。二つの穴を同時に指でかき混ぜられてくねる白い背中が艶かしい。精液を全て出しきっても涌き出る彼女自身の蜜がアーデンの手に滴る程に溢れ、清浄な空気に雌の匂いが広がる。  
「……っあーでん、……っ欲しい……っ」  
「だあめ」  
 今すぐこの熱く熟れた場所に欲望のまま腰を打ち付けたい欲はある。だが何人もの男を受け入れ、荒れてざらつく粘膜に気付いてしまえばそうもいかない。これ以上傷つけないように、少しの痛みも与えないように最新の注意を払って指を出し入れさせる。  
「あーで、っゃ、あっ、ぁ、ぁっ」  
「指だけでも気持ち良さそうじゃない」  
「ゃだあ……っっ」  
 バスタブにしがみついて身悶えるレイヴスに身を寄せて耳元に唾液を絡ませたリップノイズの雨を降らせる。指では彼女の良い所だけを執拗に狙って小刻みに刺激を与え、うねり絡み付く粘膜が痙攣を始めた頃合いを見計らい一際強く擦り上げながら指を引き抜く。  
「ほら、イけよ」  
「あぁあああっっーー」  
 がくんと滑り落ちそうになる身体を抱き締め、達して制御できずに跳ねる身体を腕の中に閉じ込める。ぷしゃ、と小さく潮まで吹いて長い快感に身を委ねる体はもうすっかり熱を取り戻していた。  
「……はい、おしまい。お湯に浸かろっか」  
 くたりとアーデンにもたれ掛かり呼吸を取り戻すのに精一杯なレイヴスは顔色こそ良くなって来たがやはり疲労が滲み出ていた。それでも隙有らば誘おうとするその病的なまでの性行為への執着心にはうすら寒いものを感じる。セックスが好きと言うよりは「人から求められたい」という渇望だろうか。自分の価値を男の身勝手な性欲の捌け口くらいにしか思っていない彼女は、本能のままに暴力的な性欲をぶつけてくる男が好きだ。わざわざ治安の悪い場所へ男を誘うような格好で出向いては、誰彼構わず咥え込んで何かを満たす。例えそれがはたから見ればレイプであろうと体を求められたという事実があればそれだけで十分なのだろう。胎に溜め込んだ精液は「求められた証」だ。だが流石にこの状態のレイヴスを抱く気にはなれなかった。どうせ数時間後には欲望のままに彼女を組み敷く事になろうとも今はまだ、性欲よりも慈しみ癒してやりたい気持ちの方が大きい。例えそれを求められていなくとも良いと思っているし、それを求めているからこそレイヴスはアーデンに助けを呼ぶのだと思っている。 
 
 レイヴスを腿の上に乗せて湯に浸かりようやく一心地ついた気持ちで息を吐く。ぴったりと背中を預けて微睡むレイヴスの穏やかな呼吸のリズムが心地よい。腹へと腕を回して抱き寄せればそれだけで大きな乳房が手に触れる。水の浮力もあってふよふよと手の項をくすぐるその感触は純粋に気持ちが良かった。ついつい下から掌で包み込んではふにふにととろけるような感触を楽しむべく揉んでしまう。人より大きなアーデンの掌でも包みきれずに溢れて揺れる脂肪の塊はささくれだった心を癒してくれる気がする。たぷりと手の中で波打つ心地よさを両手で存分に味わいながら、手癖でぷくりと赤く色付く先端を指でかりかりと引っ掻けばぴくりと華奢な肩が跳ねた。  
「……する?」  
「しないよ」  
「もう、綺麗になったのに?」  
「綺麗にしたからだよ」  
「アーデンが、満たしてくれると言ったのに」  
「一回寝て、君が元気になったらね」  
 言葉では宥めながらも指先はどんどん硬くなるそこを指先で掻き、時折強く弾いてやる度にびくびくと跳ねる身体が水面を揺らす。背を浮かせ、アーデンの手に胸を押し付けるように仰け反り露になった頬に、目元にと慈しむように口付けを落とした。  
「しないなら、何故……っんん」  
「何でだろうねぇ」  
 アーデンの腕にしがみつき批難するような眼差しを向ける彼女に苦笑いを返すしかない。安らぎを与えたいと思っていたのは事実だが、目の前に誘うような身体があったらつい手を出してしまいたくなるのも事実だ。そもそもアーデンだって下心があるから常識外れの時間に呼び出されてもほいほい応えているだけであって、餌が無ければ警察に通報してまた眠る道を選ぶ。そういう意味では彼女の体に群がる有象無象と同じだ。違う所と言えば、レイヴスと一期一会のセックスを楽しむだけではなく少しでも長くこの関係を続けたいと彼女の心を繋ぎ止める事に必死なくらいだろうか。彼女の心の闇に全力で向き合って救おうとする訳でも無く、優しくする振りで結局は自分の欲を押し付けている。  
「……っあー、でん……っ」  
「気持ち良さそうだね。ほら、舌出して」  
 こりこりとした感触を楽しむように二本の指で捏ね回して押し潰してやれば面白いくらいに身体がしなり水面が波打つ。言われるがままに差し出された小さな舌先にしゃぶりついてじゅるじゅるとわざと卑猥な音を立てながら吸い上げれば腕の中で一際大きく身体が跳ね上がり心地よい悲鳴がバスルームに反響する。先に一度達したせいでイきやすくなっているのだろう、がくがくと震えながらも健気に差し出されたままの舌を吸い上げ、唇を重ねる。アーデンが舌をいれただけでいっぱいになってしまう狭い口内を丹念に舌先で辿り撫ぜてゆく。二人分の唾液をこくこくと喉を鳴らして必死に飲み込む様が愛らしい。彼女の震えが収まるのを待ってから、最後に音を立てて吸い付き、離れる。  
「……そろそろ出ようか。茹だっちゃう」  
 この短い間に二度も達したレイヴスは、肩で呼吸をしながら虚ろな瞳でぐったりとアーデンに身を委ねていた。流石に少し虐めすぎたかと反省しながらそっと抱き上げてバスルームを出る。レイヴスは本格的に睡魔がやって来た様子で身体を拭くときも髪を乾かす時もとろとろと瞬くだけになっていた。服を着せるかどうか悩み、結局面倒だからと二人とも裸のままでベッドへと雪崩れ込む。ふぁと小さく欠伸をこぼしたレイヴスは、大人しくアーデンの胸元へとぴたりとくっついて身を丸めるとすぐに寝息を立て始めたのでやはり相当疲れていたのだろうと思う。そっとその身体を抱き寄せてアーデンも欠伸を一つ噛み殺す。外はすっかり日が登り朝になっていた。これから一眠りして、アーデンは昼前に起きるだろうがレイヴスはどうだろうか。夕方か、下手したら夜まで起きないかもしれない。目を覚ましたら何か胃に優しそうな物を食べさせてやりたい。冷蔵庫の中身を頭に思い浮かべながらアーデンも瞼を下ろす。穏やかな寝息と暖かい体温は明るい日差しの中でも睡魔を連れて来てくれた。これならレイヴスを気持ち良くさせるばかりで一度も発散されずに下腹部に重く蟠っていた熱も忘れられそうだ。レイヴスから薫るアーデンと同じ洗髪料の匂いに包まれながらいつしかアーデンも眠りに落ちて行った。 

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4.もう迷わないこの道を君とゆく

 青白く血の気の引いた肌は死人のようにも見えるが、まだ命の灯が消えたわけでは無い。冷え切った皮膚の下では人としての活動を終えた身体を浸食すべく、アーデンによって長年にわたり丁寧に送り込まれた「想い」が着実にレイヴスの身体を作り替えている筈だ。  
「巧く行くといいよねぇ」  
 人の意思を持ったままでのシガイ化。研究が完成に至る前にこのような事態になってしまった為に確実に成功するという保証は何処にもない。神凪の研究と称してヴァーサタイルがせっせと仕込んだタネが巧く動けば良いと思う。  
「せめて、名前を覚えていてもらえる程度の知性は残って欲しいなあ」  
 自我があれば身体を維持出来ずに霧散してしまった後でも再び「自分」の形に戻る事が出来る。だが個を持たずに大きな「塊」の内の一つとしてしか認識していなければ、せっかく永遠の命を与えた所で空中を漂う黒い靄にしかならない。レイヴスがレイヴスで居られるか、それとも有象無象のシガイと同じように壊れれば簡単に散らばってしまうだけの存在になるかは彼自身の意思の強さに掛かっている。  
「あ、始まった」  
 こぷりと半開きになった唇から黒く粘度の高い液体が零れ落ちる。それと同時にびく、びくと徐々に体の中心から始まる痙攣。喉が壊れそうな程の咆哮と身体が内部から破壊されているような生々しい音。  
「頑張れよ、俺、結構楽しみにしてるんだから」  
 がくがくと人ならざる動きをしながら徐々に染み出す黒い液体、それが左半身にばかり集まり異形な姿へと変わって行く様を眺めながらアーデンは無邪気に笑った。 

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3.救いになりたかった

「明日、君の妹を殺すよ」  
 ビクビクと身体の内側を貫かれる悦びに跳ねる背を見ながらつい呟いてしまったのは無意識にも等しかった。もう二度とこの背を見る事は無いのだろう、とらしくなく感傷に浸ってしまったせいなのだと思う。荒い呼吸に大きく上下する背が、少しの間を開けた後に勢い良く飛び起きようとするが、片腕しか無いレイヴスを背中から抑え込む事はさほど大変な事でも無い。予測出来ていたから尚更。彼とてそれをわかっているだろうに、なんとか必死に体制を変えようと暴れるその直情さを愚かだとは思うが嫌いでは無い。  
「暴れるな」  
 耳元でたった一言。はっきりと命令の形で告げてやればいとも簡単に肩を強張らせて動けなくなってしまうレイヴスの顔が見たいとも思うし、見たくないとも思う。よくもまあこれだけ大人しく調教されてしまったものだ。先よりも怒りを押し込めた荒々しい吐息に背が大きく膨れているというのに。引き千切らんばかりにシーツを握り締める拳が震えているというのに。アーデンのたった一言で容易く為すがままになってしまう姿は愛おしくもあり、憐れでもある。  
「ごめんね、君の敵になるつもりは無かったんだけど」  
 王に見捨てられ、神凪の運命から逃れようと足掻いたレイヴス。過去の王にすら見捨てられ腕を?がれ、王に跪くことしか出来なかった憐れな子。未だ王と敵対しているように見せてはいるが肌身離さず持ち歩くレギスの剣がその証拠だろう、それを咎めるつもりはない。むしろ王に翻弄された憐れな生贄の生き様はアーデンの心の柔らかい所をちくちくと刺してつい手を差し伸べてやりたくなってしまっただけだ。  
 最後の逢瀬をこのような形で終わらせる事になるのは不本意だがアーデンのミスが原因なのだから我儘は言えない。名残を惜しむように耳の下へと吸い付いて跡を残すと圧し掛かっていた身体を起こす。  
「――っアーデン!!!」  
 離れた背が振り返り、たった一本の手が正確にアーデンの首を掴んでベッドから床へと身体を叩き落とすのは一瞬の事だった。酷く頭を打ち付けたようにでガンガンと脈拍と同じタイミングで痛みが響く。素早く馬乗りになったレイヴスがぐ、と首を掴む力を込めて息苦しい。狭くなりかける視界の中でなんとか顔を見上げれば、想像したような怒りに染まった鬼のような顔では無く、ただ唇を噛み締めてぼろぼろと涙を零しながら真正面からアーデンを見据える視線とかち合った。言いたい事はきっとたくさんあるのだろう。けれどその全てが無駄だと理解しているが為に感情だけが暴れまわっているようなその姿。  
「……――」  
 何か、言葉を発したようにも見えたが音にまでならず、ただすすり泣く声にかき消された。 
レイヴスは知っている、自分ではアーデンを殺せない事を。アーデンに抗えない事を。アーデンを止められない事を。  
「――ごめんね、」  
 アーデンの掌が頬を流れる涙をそっと拭っても、それを払いのける腕がレイヴスには無い。代わりに強くなる首を絞める力に抗わず、アーデンの意識は静かに闇に飲まれて行った。 

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2.助けてくれて嬉しかった

 気付いた時には既に足が覚束なくなっていた。アルコールによる身体能力の低下とは明らかに違う倦怠感と異様な火照り。じくじくと膿むような熱が腹の下に集まって気持ちが悪い。せめて外へ逃れたくても次から次へと「挨拶」にやってくる有象無象のせいでままならない。皇帝陛下主催の懇親パーティ、集まるのは帝国貴族と一定階級以上の軍人。見た目ばかりは華々しく優雅だが中身は陰謀渦巻くパワーゲームの場でしかない。中でも属国出身でありながらも若くして大佐にまで上り詰めたレイヴスは注目の的だった。有能なのか、それとも強力なコネクションがあるのか、味方に引き込むべきなのか早々に叩き潰すべきなのか。一挙一動を頭から足の先まで見定める視線に囲まれた中で醜態など晒せない。いくら将軍、准将に次ぐ地位にあるレイヴスと言えどこの場ではいとも簡単に踏み潰される塵芥に過ぎない。  
「ご歓談中失礼します閣下、少々大佐をお借りしても?」  
 熱さでぐるぐると回る視界の中で、目の前で動く唇が止まるタイミングを計ってはなんとか相槌を返すのが精一杯になってきた頃に割り込んだ声。のろりと視線を動かせば緩やかな赤い波に包まれた顔がぬっと近づいてくる所だった。  
「此処を出るまでは耐えろ」  
 突然耳元に吹き込まれた低音に肩が跳ねそうになるのをなんとか奥歯を噛み締めて堪え、それでは皆様良い夜をとさっさと踵を返す男にレイヴスも慌てて中座の謝辞を必死で吐き出して追いかける。先程までは何処を見ても人の波で到底抜け出せそうに無かった場所を、先導する男が歌うように挨拶を交わしながら道を開けさせてゆく。レイヴスがすることと言えば今にも崩れ落ちそうな身体を叱咤して悠然と歩いているように見せる事だけだった。

 人気の無い廊下へと出た瞬間に崩れ落ちた身体をいとも簡単に引き摺られて放り込まれたのは屋敷のゲストルームのようだった。外に出れた安堵感で一気に思考すらままならなくなったレイヴスは何処をどう通ったのかもわからない。ただ転がされたシーツの冷たさが心地よかった。  
「まんまと盛られて馬鹿じゃないの」  
 氷よりも冷えた声に返す言葉も無くただ荒い呼気に肩を揺らす事しか出来ない。実際、まさかそんなものを飲まされるとは思わず油断したレイヴスの落ち度だった。何処で口にしたのかすらわからない。  
「お前の周りには敵しか居ないって散々学んで来ただろ」  
 知っている。神凪の血筋と言うだけでこの国では嘲りの対象になることも、属国上がりの癖に着々と出世を重ねている為に妬まれていることも、こうしてこの男が何かと構うせいでこの男の敵すらレイヴスを見ている事も。  
 けれどその中で唯一、手を差し伸べて来たのは。  
 馬鹿にした言葉を投げ付けながらもわざわざ体裁を取り繕って助け出したのは。  
 自分こそ大勢の人間に囲まれて身動き取れないだろうにレイヴスの異変に駆けつけたのは。  
「借りは、返す」  
 だから、と相手へと手を伸ばせば冷えきった眼差しが一層鋭く細められ、それから大きな溜め息一つ。呆れたと言わんばかりの顔をしながらも伸ばした手を握り返す冷えた温もりに、レイヴスは自分の頬が緩むのを感じた。 

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1.あんな触れ方をされたら落ちるしかなかった

 愛した家族に裏切られ、信じた友は背を向けた。暖かな光の中にいた筈の身はいつしか蔑みの眼差しに囲まれて冷え切っていた。 生かさず、殺さず、誰もアーデンと目を合わせないまま上辺だけは救世主様と媚び諂うそんな毎日に疲れ果てて処刑が決まった時は怒りと同時に安堵した。やっとこの苦しみから解放されるのだと。  
 はた、と目が覚める。そして目が覚めた事に絶望する。 自分は確かに死を迎えた筈だ。二度と起きることの無い安らかな眠りを得た筈だ。狼狽え飛び起きようとしたアーデンの両眼が再び闇に閉ざされる。押し付けるでも無くそっと置かれた熱いくらいの温もりは不思議と恐怖を抱くよりも先にすとんと心に凪を齎した。  
「……寝ろ」  
 聞き覚えはあるのに知らない人のような掠れた低音。いつも警戒心も露わに尖って聞こえていたそれは酷く穏やかにアーデンの鼓膜を震わせた。だがアーデンの脳裏にははっきりと突き刺さるような視線がまだはっきりと残っている。ひそりひそりと小波のように「化け物」と囁き合う声が響いている。  
「もう怖い夢は見ない」  
 だから、寝ろ。と囁きを掻き消すように紡がれた何の確証も無い言葉が何故か驚く程に自然と心を落ち着かせた。そっか、と呟いた気もするし、声にはならなかったかもしれない。闇の中で再び瞼を閉じればゆっくりと温もりが瞼の上から額から髪へと滑って行く。ゆっくりとしたその動きはとろりと再び鈍くなってゆく意識を更なる深みへと誘うように優しく心地よい。 幾度も、幾度も繰り返される動きに遥か昔にまだアーデンを愛していた頃の母の手を重ねながら気づけば再び意識は眠りの中へと落ちて行った。
 
 次に目覚めた時はすっかり日も上った朝だった。声の言う通りに二度と不快な夢を見る事も無くすっきりとした目覚めを迎えてしまい思わず隣を見る。  
 昨晩、いつまでも反抗的な眼差しをしたままアーデンに抱き潰された筈の彼は既にそこには居なかった。 

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