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空箱

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断片

「きみは」
「次に目を開けた時」
「人の為の神凪になるんだよ」
「妹の仇を討って世界を救うんだよ」
「君は仇に憎しみ以外の感情は持っていない」
「ああ、……同情くらいはしてくれてもいいよ」
「【俺】とは今日でさようならだ」
「俺と似た人に会ってもついて行っちゃダメだよ」
「俺はもうそこには居ないからね」
「だから」
「……」
「その、……」
「俺を、此処に置いていっていいかな」
「いや違うな、ごめん、置いていくね」
「別に捨ててくれて構わないから」
そう言って無責任に遺されたモノは、明るい日差しの下で今なおレイヴスの心の片隅を黒く濁らせている。

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エイラ

うにゃあ、と寝室から不機嫌そうなエイラの唸り声が遠く聞こえる。恐らくは、ようやく目覚めた眠り姫が今日も果敢にエイラと仲良くなろうと手を伸ばしては不興を買ったのだろう。実家では犬を飼っていたという彼女は猫の扱いを理解していない。思わず笑いを誘われながら、手早く書きかけの文章を最後まで打ち込んで保存ボタンを押す。レイヴスが起きたのなら朝食、……すでに昼食の時間だったが用意せねばならない。
立ち上げていたプログラムを終了させ、薄いノートパソコンを閉じる頃にリビングに現れたレイヴスは、素肌にアーデンのシャツを一枚羽織っただけの姿だった。そんな薄着ではそろそろ寒いのでは無いかと思うが、この見た目も中身も上等なお姫様は服を着ることすら自分一人ではしてくれない。むしろ一枚でも羽織って来ただけ良くやったと誉めてやりたくなるのだから、我ながら甘やかしていると思う。
案の定、さむい、とこぼしながら今までノートパソコンが置かれていた膝の上に乗り上がる身体をそっと抱き留めてやれば、小さくて柔らかな身体は寝起きに相応しく暖かかった。
「おはよう、レイヴス」
挨拶代わりに髪に口付けをしても、ぐずるように身動ぎぺたりと胸元に顔を埋めて脱力する姿はそれこそ猫のようだった。
「……エイラって、婚約者の名前?」
唐突に、だが今日の天気でも聞くかのようなあまりにも気負いのない声で聞くものだから、つい素直に頷いてしまった。
「そうだよ」
「だから私は嫌われているのか」
「ただの猫だよ、関係ない」
「でもエイラなのでしょう?」
声に何処か拗ねたような色が見えて思わず頬が緩む。かつて婚約者だった女性が忘れられずにつけてしまった彼女と同じ名前。あまりに未練たらしいと気付いて恥ずかしくなってきた頃にはすでに猫は自分の名前をエイラだと覚えてしまっていた。今では自分自身の心の整理がつき、愛しい飼い猫としてエイラを呼べるが、それをレイヴスが指摘してきた上に珍しく感情を見せるとは。思わず抱き締めて頬擦りをすれば、いたい、と小さな抗議の声が上がった。
「エイラから名前をもらったのは確かだけど……もう昔の話だよ」
離れようとする身体を逃さぬよう、今度は優しく抱き締めて目元に頬にと唇を幾度も押し付ける。これが恋なのか保護欲なのか、それとも自尊心を満たす為のエゴイスティックな行為なのかはわからないが、レイヴスを手離したくないという想いは確かだった。不服そうに眉根を寄せながらも暫く黙ってキスの嵐を受け止めていたレイヴスは、逡巡するような間を置いてからへにゃりと眉尻を下げてまた肩へと顔を押し付けてしまった。
「……エイラと上手くやっていける自信が無い」
「一緒に住む話、考えてくれたの?」
最初はただレイヴスの身体に釣られた数多の男の中の一人だった。それがなんとなく放って置けずに世話を焼いているうちに懐かれたのか、レイヴスにとって都合の良い男にまでなった。その頃にはレイヴスをすぐに抱ける安い女というよりも、手元に置いて愛でてやりたいと思うようになっていた。それが恋だなどと言うつもりは無い。あの手この手でレイヴスを手元に引き寄せ甘やかし、自分がいなければ息も出来ないようになってしまえば良いと思うのはそんな暖かな感情では無いだろう。ひとところに留まる事を怖がる彼女がそう簡単に頷いてくれるとは思っていなかった誘いだが、この様子ならば旗色は悪く無いかもしれない。むしろ自分の意思を極力まで表に出さないようにしている節のあるレイヴスのこの言葉は勝利したも同然では無いのだろうか。
「……猫をどうにかしてくれるなら考える」
「大丈夫、すぐに仲良くなれるよ」
なんせ君とエイラは似ているから、とは言葉にせず、ただこの浮き足立つ感情のままにレイヴスを抱き締めた。

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ごっこ遊び2

「レオナ、お腹空いた」
「それならラギーを呼びましょう」
「えー……レオナの手料理が食べたい」
「わたくしは料理を不得手としておりますゆえ、専任の者を呼ぶ方が賢明かと」
「茹でただけの卵とかでいいからレオナが作った物が食べたい」
「………左様ですか、それでは少々お待ちくださいませ」
言葉ばかりは丁寧な物の、ハァと溜息を吐き面倒臭い様子を隠しもせず、のっそりとベッドから立ち上がったレオナがガリガリと頭を掻きながら冷蔵庫へと向かう。枕にしていたレオナの身体が無くなってしまい居心地が悪い。もぞもぞとシーツの上を泳いで先程までレオナが頭を乗せていた枕を奪い取り、ついでに近くにあったふかふかのクッションを腕の中に抱き込んで一息。読んでいた本はとうにしおりを挟んで枕元に投げ出した。今は本の続きよりもレオナが何をするのかの方が楽しみだった。
冷蔵庫を開けたレオナは腰に手を当てたまましばらく考え込んでいた。この部屋の冷蔵庫に調理できるような物があるとはジャミルとて思っていない。きっと中に入っているのは大量の飲料水と少しの酒、運が良ければ購買で買えるおやつや、ラギーが夜食を作った残りの食材を多少保管している事もあるが、そもそも食材を蓄えておくという概念が無いのだ、この王子様は。それでも冷蔵庫が備え付けられているのは「いつでも冷たい水が飲みたい」という王族の我儘に過ぎない。
結局何も思いつかなかったらしい冷蔵庫はばたんと無造作に閉められ、次に向かったのはクローゼット。何故そんな所にと思いながらも様子を伺っていれば、開けた扉の向こうでがさごそと漁る音がし、そして取り出されるのは未開封のビーフジャーキーの袋。
「……それ、何年ものですか」
思わずぽつりと零れた声を、レオナは正確に拾い上げたようだった。
「前回のホリデーに持ち帰った物ですから、数か月と言った所ですね。保存食なのですから問題ないでしょう。あと敬語が出てますよご主人様」
言われて咄嗟に片手で口元を押さえればレオナは肩を揺らしてひっそりと笑っていた。ごほん、とわざとらしく咳払いして誤魔化す。
「……で?俺はレオナが調理したものが食べたいって言ったんだが?」
袋から出して齧るだけのビーフジャーキーでは不服だとわざとらしく目を細めてレオナを睨んでやるが、当の本人は白く平たい皿の上にビーフジャーキーをそっと一枚乗せている所だった。ジャミルの掌程もありそうな大きさのビーフジャーキーが一枚乗っただけの皿を片手にベッドの傍まで戻って来たレオナが薄っすらと口角を上げて笑う。
「こちらに御座いますのはわたくしめが数カ月もの時間をかけてじっくり熟成させた手作りのビーフジャーキーです」
「物は言い様だな」
「ご主人様の為に真心こめて熟成させました」
余りにも堂々とした物言いに思わず吹き出す。従者、というには威圧感があるが、流石に言葉遊びには長けているらしい。嫌われ者の第二王子と言えど、それなりの教育は受けているのだと窺い知れる。
「そして最後にもう一手間。美味しくなる魔法でございます」
そう言ってサイドボードに投げ出されていたマジカルペンを手に取ったレオナが、片手に乗せたままの皿の上でペンを一振りするとふわりと巻き上がる炎。白い皿の上から瞬間的に燃え上がった炎はじりりとジャーキーの表面を焦がし、良い肉の香りをさせた所で音も無く消えた。
「ビーフジャーキーのローストでございます」
恭しく腰を折り曲げながら焦げ目のついたビーフジャーキーが差し出されて、ジャミルは耐え切れずに声を上げて笑った。

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魅惑の香

月に一度の交流試合を終えて自室に戻れば優雅にレオナのベッドを占拠して寛ぐジャミルの姿。
「お帰りなさい、今日はどうでした?」
「勝ったに決まってんだろ」
荷物を床に放り、疲れた身体をベッドに投げ出せばレオナの体重を受け止めたジャミルがぐえ、と鳴いた。レオナ自身も多少何処の骨が食い込んでそれなりの痛みはあったが疲労感には逆らえない。ジャミルを下に敷いたまま居心地の良い場所を求めてもぞりもぞりとシーツの上を泳げば自然にジャミルの頬に頬を摺り寄せるような体制に落ち着いた。そっと背中に腕が回されるのを感じながら深く呼吸をすれば控え目な石鹸の香りと共にジャミルの匂いに包まれる。
「汗臭い……」
「嫌なら退けよ」
「嫌とは言って無いでしょう」
ぎゅうと腕に力が込められ、首元に顔を埋めたジャミルも深い呼吸をしていた。それから臭い、ともう一度溢しながらも楽しそうにすんすんとレオナの匂いを嗅いでは笑う。
こちらは朝っぱらからわざわざ対戦相手の学校まで出向き、何度か試合をし、それから今日の反省点やら次回へ向けての課題の洗い出し等眠くなるようなミーティングまで済ませてやっと帰って来たのだ。当然、汗もかいたし1日分の汚れが纏わりついている。健康な男なら臭って当然だろう。
「……不味っ……」
ぬるりと首筋が舐められては勝手な感想を溢すジャミルの好きにさせたまま瞼を下ろす。構ってやるにしても、一度身体を休めたかった。
ひやりと下腹部が冷える感覚に目を覚ます。まだ外から差し込む夕焼けは帰ってきた時からさほど変わらない位置にあった。恐らくは、五分から十分しか経っていない。それでも少しすっきりした意識で見下ろせば、いつの間にか仰向けになっていたレオナの足の間に陣取ったジャミルがレオナのジャージを引きずり下ろしている所だった。蒸れてぺたりと肌に陰毛を張り付かせた股間が露わになるのを見ては、うわあ、と一人で楽しそうに笑っている。
何をするのかとそのまま眺めていれば、近付いた顔が股間に埋まる。くさっ!と言いながらくふくふと笑う吐息が敏感な場所にくすぐったい。
「……臭いっつーわりには好きだよな」
顔面を擦り付けるせいで毛先が鼻に触れたのだろう、へくしっ、とくしゃみをしてから漸くレオナが起きた事に気付いたジャミルがにんまりと笑う。
「嫌いじゃ無いですよ。毎日は嫌ですけど」
そう言いながら萎えた物の根元へと口付けを落とすジャミルは何がそんなに楽しいのかレオナには良くわからないが、楽しそうにしているのならまあ良いか、と諦める。害があるのなら阻止するが、こういう時のジャミルは放って置いた方が被害が少ない。
「臭いんですけど、先輩も生身の生き物なんだなあって」
「テメェは俺を何だと思ってたんだよ」
「同じ人間だって、わかってるつもりなんですけどね」
まるでこれから調理する食材のようにレオナのモノを手に取ってはぷらぷらと揺らす。ついでとばかりに再び蒸れた裏筋へと顔を寄せては匂いを嗅ぎ、くさっ!とわかりきってるであろうことを溢してジャミルが笑う。レオナが寝ている間に勝手に股間だけ露出させられ、大事な場所を玩具にされていても何だかんだと許しているのは何故なのだろうかと疑問に思いながらも止めようとは思わなかった。それよりも。
「どうせなら確り味見してけよ。得意だろ」
「先輩こそ俺のこと何だと思ってるんですか。絶対不味いから嫌です」
「どうせその気で来たんだろうが。俺は疲れてるからヤりたきゃテメェでその気にさせろ」
「洗ってないちんこ舐めさせる気ですか」
「好きだろ」
「嫌いじゃないです」
「変態……」
「失礼な」
「寝てる人間のちんぽの匂い嗅いでにこにこしてるヤツが何言ってやがる」
「臭いのに何故か嗅いでしまう匂いってあるじゃないですか。それです」
「よそ様の大事なモンで楽しむんじゃねえよ」
「どうせならもうちょっと寝ててくださいよ。起きるの早すぎです」
「勝手に人のちんぽ握るやつがいておちおち寝てられるか」
「はいはいまだねんねの時間ですよ、良い子におねんねしましょうね」
「……お前な……」
まるで赤子をあやすかのようにレオナの性器に口付け頬擦りする姿に思わず吹き出してしまった。本当に何がそんなに気に入ったのかわからないが必死過ぎる。
「後でお前が上乗って腰振れよ」
「その前に全身ぴっかぴかに洗った上でちんこ舐めてあげるサービスもつけますよ、得意なので」
商談成立した所で再びレオナの股間に顔を埋めてはすんすんと匂いを堪能し始めるジャミルの頭を暇潰しに撫でながらくぁ、と欠伸を一つ溢す。もう眠れる気はしなかったが、ジャミルが楽しそうならまあ、良いか。

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化粧2

洗い立ての肌に、ひたりと濡れた掌がジャミルの顔を覆った。ぺたり、ぺたりと優しく液体を押し込む掌は硬く、ジャミルの顔を覆い尽くしてなお余りそうなくらいに大きい。
「もっかい塗るぞ」
一度離れた掌はジャミルが目を開けようとした所で再び目の前を覆い、大人しく瞼を下ろす。先程よりもとろみのある液体を纏った掌が押し付けられた後に、ゆっくりと輪郭をなぞるように優しく肌の上を滑る。眼窩の窪みや鼻筋の横まで丁寧に指先が液体を塗り広げ、最後に顎の下をするりと撫でたと思えば柔らかな感触が唇に触れた。
予想外の感触に思わず目を開ければすぐ間近で弓形に細められたエメラルド。おまけとばかりにもう一度唇が啄まれてから離れていく。
「ちょっと、真面目にやってくださいよ」
「ねだってるみてぇな顔してたからつい、な」
そう言って笑ったレオナにつられてジャミルまで頬が緩む。ただじっとしていればレオナ好みの化粧が施されるのだと無防備に身を委ねていたというのに、何処か甘い空気が纏わりついて心が浮ついていた。
離れたレオナがリキッドのボトルを取り、軽く降った後に親指の付け根の上に垂らす、その手慣れたやり方に思わず魅入っていると、普段はやらねぇよ、と言い訳めいた台詞が溢された。
そのまま塗られるのかと思いきや、もう一種類、色味の濃いリキッドの瓶が同じように振られてから数敵垂らされ、指先でかき混ぜて色を馴染ませた後にスポンジが取り出される。
「別に珍しいものでもねぇだろうが。目ぇ閉じてろ」
いつも上から見下ろすような男が、少しだけ困惑したような声を出すものだからますます意地悪してやりたくなる気持ちをぐっと堪え、はあいとお利口さんなお返事一つで言われるままに瞼を下ろす。
ぴた、と押し付けられたスポンジは柔らかくもひんやりとしていた。ぺたぺたと軽く叩く手付きは優しいが淀みはない。満遍なく顔の上をスポンジが塗り広げた後に大きくて柔らかなブラシが肌の上を撫でて行くのが心地よい。高級感溢れる少しの刺激もない毛先にとろりと身体が弛緩してゆく。
「っっひゃ!?」
その隙を待っていたかのように不意に耳朶をその柔らかな毛先が擽り、間の抜けた悲鳴を上げてしまった。弛みきった身体がぞわぞわと鳥肌を立てている。
「先輩!」
楽しげに笑い声を上げる犯人が腹立たしく、べしりとすぐそばにあった太股を叩いてやるが全く効果は見られない。
「良い声が出たなあ?」
「真面目にやってくださいって言ってるでしょう!」
「大人しくしてるのを見るとつい、な」
許せと言わんばかりに一度だけ音を立てて唇を啄まれる、たったそれだけで絆されて許してしまうのも癪だが、此処で争っていたらいつまで経っても終わらないのだと自分を言い聞かせる。
「ほら、続きをやってやるから目ぇ閉じろ」
既に二回も余計な事をされた身としては疑うような半目でレオナを見てしまうが、何もしねぇよ、とアイシャドウとブラシを持った両手を肩の上に上げてひらひらさせているのを見て仕方なく目を瞑る。
顎を捕まれた時は一瞬身構えるが、頬の上に掌が触れたと思えば目元を細く柔らかな毛の感触。睫毛の生え際からアイホール全体へと幾度かに分けて色が塗られて行く。目を閉じる直前に見たシャドウはゴールドのものだったが、離れる度にケースを開閉するような音が聞こえて今は何色を塗っているのか全くわからない。
今まで柔らかな筆先が撫でていた目尻をレオナの指先が少しだけ強く擦る。まるで、折角塗った色を拭うような。
「……失敗したんですか」
「うるせえな、大した事ねえよ」
茶々を入れた罰とばかりにむにと一度頬を摘ままれ、更に言葉を重ねようとするがすぐにまた頬にレオナの手が触れて瞼の上へと筆を滑らせるので唇を噤む。
修正は程なく終わったようで、離れたレオナが何かを開けたり閉めたり、化粧道具を漁る音を黙って聞いていると再び顎の下に触れた指先がジャミルの顔を持ち上げる。
「一度目ぇ開けろ」
言われるままに瞼を開けて見上げれば、思いの外真剣に見定めるようなエメラルドが真っ直ぐにジャミルを見下ろしていた。そのままレオナの指示のままに何度か目を開けたり閉じたりを繰り返す。レオナの右手にはアイライナーが握り締められていた。
「……よし、じゃあ今度はいいって言うまで目ぇ開けるなよ」
「はい」
大人しく瞼を下ろせばレオナの近付く気配。左手でジャミルの顎をしっかりと支え、頬に当てられた右手は先程と同じだが、目を閉じていてもわかるくらいに距離が近い。レオナの吐息がジャミルの肌に触れるような近さで、まるでキスをする直前のような距離なのに間にあるのは繊細な作業を前にした緊張感。ジャミルまでその緊張感に息を潜めて筆が触れる瞬間を待つ。
ひやりと目頭に置かれた筆。睫毛の生え際をなぞる筆先は迷いなく目尻へと滑り、そして離れて行く。反対側の目も同じように筆が肌を撫でた後は、ふぅ、とレオナの吐息が目元に掛かる。これが乾くまでは目を開けられないジャミルを他所にまた化粧品を漁る音。頬骨の上に、顎や額の生え際に、鼻筋の上に、幾度かに分けて滑る筆は目元の時よりもさらりと手早く行われ、幾重にも粉を重ねられた後でようやく目ぇ開けていいぞ、と許可が下りる。
乾き具合を確認するように幾度かぱちぱちと瞬きをしてからレオナを見上げれば真剣だった眼差しがゆるりと笑みの形に細められた。どうやら満足いく出来になったらしい。
「じゃあ今度は下だな。天井見とけ」
「シミでも数えてれば良いですか」
「それは後でな。そんな余裕あるのか知らんが」
「俺は先輩見下ろす方が好きです」
「そうかよ」
他愛の無い軽口もレオナがジャミルの下瞼を引っ張るように親指を宛がえばふつりと止まる。言われた通りに目だけを天井へと向けるが視界の端には真剣さを取り戻したレオナの眼差しが間近でジャミルを見ていた。細いチップが睫毛の生え際を埋めるように粉を乗せた後、赤い色をしたアイライナーが真ん中あたりから目尻へと向けて走る。こんなに近くまで顔を寄せているのにキスをしていないのがなんだか不思議だった。
「……こんなもんだな」
「終わりました?」
「あとリップも塗らせろ」
「すぐ落ちるのに?」
「落ちるような事をしなきゃいいんだろ」
「さっきから何度も悪戯していた人に出来るんです?」
「お前がして欲しそうにしてるからだろ」
人に責任を押し付けて唇を押し付けようとするのが気に入らない。性懲りも無く唇を寄せるレオナに咄嗟に手の甲で唇を守れば、丁度すっぽり掌にレオナの口元が収まり思わず笑い声が漏れた。
「したいなら、したいっておねだりしてください」
ジャミルの掌一枚挟んだだけの距離で見つめ合う瞳がすぅ、と眇められたかと思えばぬるりと掌に触れる温かく濡れた感触。意思を持ち、明確な目的を持った舌先が掌の皺をなぞり指の間へと潜り込もうとすればぞわぞわと期待が込み上げてしまう。
「……せめて、メイクが完成した所を見たいです」
圧し掛かるレオナを押し返さないのはジャミルの意思だが、あのレオナがジャミルにどんなメイクをしたのかは崩れる前に見たかった。だがそっとジャミルの両手を取ってシーツに押し付けたレオナがにぃ、と口の端を釣り上げていた。
「完成させたきゃ協力しろ」
「協力?」
「ヤった後のテメェに似合うメイクにしてやったつもりだぜ?」
「は、……」
「完成が見たかったら、思う存分善がって鳴けよ」
あまりに酷い言い草に思わず声を上げて笑う。ただレオナがジャミルにメイクを施したならばどんなメイクになるのかという健全な興味で大人しく待っていたというのに、実際には邪な欲望の下拵えでしか無かったのだ。まんまと気付かずにいたジャミルも間が抜けているし、そんなことの為にあんなにも真剣になっていたレオナも素直過ぎる。
「下心丸出し過ぎじゃないですか?」
「しねぇのか?」
「しますけど!」
姿見の前で快感に蕩けた自分の顔を見せつけられながら散々鳴かされる事になり後悔するのはそれから少し後の事。

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