昨日までは綺麗な真っ青なキャンパスに巨大なソフトクリームにもがどんと居座っていた空は一夜にして灰色一色に埋め尽くされた。
まだ日も昇りきらぬうちに振り出した雨は、夜明け前に漸く布団に潜り込む事が出来た土方を休ませるがよっぽど嫌いなのかすぐに激しく地面を叩くようになった。
無造作ばら撒かれる雨音の激しさはたった一枚ばかりの薄い戸くらいでは眠りの浅い土方の安らぎを護る事が出来ず、ほんの少しの間だけ意識を漂わせるのみで土方の意識は覚醒を余技無くされた。
まともに休めず、されど昨日だけの物では無い蓄積された疲労は空から圧し掛かる鈍い色の雲のように土方を上から潰そうとしているようで、泥のように重い身体は中々思うように動かす事が出来ない。
だからと言って雨は眠る事を許してくれず、仕方なく土方は布団から這うようにして灰皿を取るとだらしなく寝そべったまま煙草に火をつけた。
美味くも無い有害な煙を肺へと取り込む作業を数度繰り返し、煙草が短くなれば新しい煙草へと火をつけ。
そんな事を三回程繰り返した辺りで漸く、土方は布団から身を起こした。
外から頭蓋骨を潰そうとするような頭痛は有るが少なくとも身体の方は気合でどうにかなりそうだ。
布団への未練を断ち切れない脳味噌を無視して重い身体を引き摺るように立ち上がるといつもの黒の着流しへと着替え、傘を手に愛刀一本腰に差して土方は屯序を出た。
眠る事は出来なくても、せめて、息抜きくらいはしたい。
からり、ころり、雨音に負け無い下駄の音が人の気配の無いかぶき町に静かに沈んで行く。
傘を差していても足元に跳ねる水雫は遠慮無しに着流しの裾を重く冷たく冷やして土方の体温すらも奪うようだったが、それが逆に気持ち良かった。
もしかしたら疲労で熱っぽいのかもしれない。
何処かでそう冷静に判断しているのに土方に屯序に帰るという選択肢が思い浮かばなかった。
屯序に帰った所でそろそろ隊員達も起き出して来る時間だ。
そうすればもう自分は寝不足も疲労も全て己の中に隠し伏せて鬼の副長の顔にならなければならない。
辛い、とは最早思わない。
だが全てを飲み込むにはもう少し、ほんの少しだけ自分だけの時間が足り無い。
仕事に忙殺され、寝る時と厠以外で一人きりになれる時間など皆無に等しい今、何よりも磨耗しているのは身体よりも精神だ。
一つずつ地道にテロ組織を潰して行く達成感と充実感は並大抵の物では無いが、それとは別に磨り減って行く物は真撰組では補えない。
補うつもりも無い。真撰組は組織であって馴れ合いの集団では無いのだから。
まるで町を独り占めしたかのように雨音だけが支配するかぶき町を、ただぼんやりと足が進むままに任せて歩き慣れた道を辿る。
歩いているうちに身の裡へと篭るような熱を着流しに染み込んだ雨が冷やして行く。
足を上げる度に跳ね上がる水雫に濡れた裾は色の濃い部分を徐々に広げて最早下半身一帯濡れているようなものだ。
傘を握る手の指先の感覚は既に無く、冷え行く身体に比例するように思考も次第に冴え渡っていくようだった。
「多串君…?」
不意に、それは余りにも突然だった。
まるで今まで人の気配を感じ無かった雨の中、ともすれば雨音に負けそうな声に振り返ると暗い中に浮かび上がる白い姿。
思わず舌打ちが零れてしまうのは条件反射だ、もう仕方無い。
だがそれが何に対しての舌打ちなのかまでは土方には判らないし、敢えて知るつもりも無い。
こちらを誤解に寄る勝手な呼称で呼びつけた男は正体を見極めるように怪訝そうにしていた顔に一瞬、喜色を滲ませるもすぐに驚愕の表情へと変わり雨雫を蹴りつけるようにして土方の下へと駆け寄った。
無造作に腕を掴まれる事を許してしまったのは決して許容でも油断でも無い。
いつも死んだ魚の目をしている男の気迫に押し負けて身体が硬直したのだ。鬼の副長とも呼ばれる土方が。
「ちょ…ッえ、何、何でこんな冷え切ってんの!?」
触れた途端に騒ぎ立てる男に漸く、苛立ちが遅れて沸いて来る。
「五月蝿ェな、テメェにゃ関係無ェだろ」
無造作に振り払おうとした手はだが力強く掴まれたまま剥がれないで、抗うように力の篭められた指先からじわり、と体温が染み込んで来た。
冷え切って感覚すら失いかけている肌に、濡れた布越しに伝わる温もり。
馴染みすら覚えるそれが、掴まれた腕のたった少しの面積から広がり足の爪先まで波紋のように広がるのに土方は陶酔にも似た眩暈を覚えた。
「関係無くはねーだろ、そんな顔でふらついてんのを無視出来る程俺ァまだ人間辞めてねーぞ」
「俺の顔にケチつける権利なんざ白髪テンパにはねーよ」
「テメェこそテンパにケチ付けんじゃねぇええええええ!!」
一気に臨戦体勢へとなりかけた空気は、だが突然男が掴んだ腕を引っ張った事に脆くも崩れ落ちた。
反論に口を開きかけた土方が足を踏み締める間も無く倒れ込むように辿り付いたのは暖かな温もり。
互いの傘が当たったのか勢い良く後ろへと跳ね返る傘が掌を滑り落ちて地面へと転がって行くのを視界端に捕らえながら土方は銀時の腕の中へと抱き込まれて居た。
銀時の持つ傘の下、雨の中に残る太陽の残り香が鼻先を掠める。
全身に、まるで土に染み込む雨のようにじわりと温もりが広がって行く。
微温湯を漂うような静かな温もりが冷たく強張って居た身体から一気に力を削げ落としてしまうようだ。
一度安らぎを覚えた脳は先程無理矢理布団から引き剥がしたのを恨んでいるのか禄に働いてくれず、ただ凭れるように体重を預けてしまっても銀時は何も言わずにただ強く、抱き締めた。
温もりに、全身が包み込まれる。
「……何で、こんな所居んの。」
低く、肩口に顔を埋めて囁く音色は普段の無気力とは違う、重さがあった。
「……此処に居ちゃ悪ィか。」
何故だか緩んでしまった唇が笑う吐息を混ぜて答える。
ぴくりと、一瞬肩を揺らした銀時は顔を上げるとゆっくりと口角を釣り上げた。
「悪かねぇ、一生居ろよ」
一生は無理だ、と斬り捨てながらゆっくりと意識が霞んで行く。
何処か、とても心地良い場所へと飛び立つ浮遊感に包まれて滑り落ちて行く意識を繋ぎとめていられない。
警戒も緊張も全てを根こそぎ掻っ攫われて土方の中身の奥深くの部分だけがすっぽりと銀時の温もりに抱き締められているようだ。
次第に弛緩して行く身体を確りと受け止めた銀時男から、お休み、と耳にこびり付くような甘い低音を囁かれたのを最後に土方の記憶は途切れた。
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