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空箱

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幻想の恋

初めて目にしたのが何時だったのか、それが何処であったのか正確には思い出せない。
明るい日差しを受けて煌めく癖のある珈琲色の髪を揺らしながら無邪気に笑う笑顔。今まさに成長している最中の太くなった骨格に残る柔らかな肌。そしてくる くると表情を変える二つの翡翠。言葉を交わしたわけでも、面と向かって正面から向き合ったわけでもない、ただすれ違うようにして垣間見たその光景が今でも アーサーの脳裏にこびり付いて剥がれない。もしかしたらあれはただの夢や幻、いわば行過ぎた幻想なのでは無いかと思う事が無い訳でも無い。現実で出会う彼 は、太陽のような笑顔をついぞ見せる事無く翡翠を暗い深紅に染めてばかりで、あの時軽快に弾ませていた不思議な訛りの声は高らかに血を求めていた。敵を、 アーサーを、軽々と奮う大斧で切り裂く事を望む歪んだ高揚に唇を歪ませて襲い来る彼にあの日の面影は、無い。だが、何故かただ斬り捨てることは出来無い。 迎え撃つアーサーの心も敵を、彼を、手にした刃で赤く染め上げる事を求めていたから。
いつしか幼き日の幻想は記憶の引出しの奥底へと仕舞われ、あの時感じた心が走り出すような淡い衝動は忘れ去られていたと思っていた。今、胸にあるのはただ彼を嬲り、跪かせて完全なる勝利を掴むことだと信じていた。
目の前に転がるロイヤルミルクティーの色をした肌が真っ白な包帯をまとって穏やかな呼吸に合わせて上下している。肌の半分以上を覆い尽くす程の包帯の合間 から見える肌にも大小の傷跡。それは古い物からつい最近治ったばかりの物まで多種多様で彼の平穏では無かった生を伺わせる。アーサーが彼の眠るベッドの端 へと腰を下ろしても男が目を覚ます気配は無い。あれだけ手酷い扱いを受ければ仕方無いのかもしれないが。
ただ彼を陵辱するだけの時間が終わった後、自分の船へと運ばせ手入れのされた客室を与えたのはほんの気紛れだ、とアーサーは思う。傷の手当てをしたのも、 こんな風に彼の寝姿を眺めているのも。流石に首輪は外さずにベッドヘッドへと繋いだままだが穏やかに眠る彼はかつての幻想の名残を無理矢理引き出しから引 き摺りだそうとしているようで心がざわつく。
整えられた空調の中、そっと伸ばした指先に触れた額はじんわりと汗を滲ませていた。傷から発熱しているのかもしれない。そのまま髪を退けるようにこめかみ を辿り頬を包み込むと其処は男らしく削げ落ちていたがまろやかな柔かさを残していた。離れ難く吸い付く頬をゆっくりと親指で撫でながら寝顔を見下ろす。そ ういえば、こんなに静かに彼を見詰め続けていることなど今まで無かったかもしれない。
「……寝ていると、随分印象が違うんだな…」
起きている時の彼はいつも瞳をぎらつかせて滾る闘志を纏わせて今にも襲い掛からんばかりの勢いで在ったのに、此処に居るのはやつれているとは言え何処か素朴さを感じる幼い顔だ。何故だかそれが酷く落ち着かない。
「…いつもこういう顔してりゃぁ……」
知らず、零れ落ちた独り言にアーサーは我に帰る。今、何を思った?何を言おうとした?渦巻く思考がはっきりとした言葉になる前に首を振って強制的に追い払うと眠る男の頬を八つ当たり気味に抓る。
「ン……ぅ…」
ひくりと眉を寄せてのろりと首が揺らいだ。手から逃れようとしているのか緩慢に身を捩るのに合わせて首から伸びた鎖が微かな音を立てた。それでも尚、頬を抓る。
いっそ、目を覚ませ。否、覚ますな。
二つの相反する気持ちに支配される。思考が纏まらない。どうしたらいいのかわからない。
「ちくしょう、テメェなんか嫌いだ…」
忌々しげに呟いてみても恐怖はすぐそこまでひたひたと足音を立てて近付いて来ている。今まで気付かなかった物を、忘れていた物を、嘲笑うかのように両手一杯に抱え込んで詰め寄ってくる。まだそれを認めたくは無い、認められる訳が無い。
まさか、俺が、この男が好きだなどと。

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