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空箱

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化粧2

洗い立ての肌に、ひたりと濡れた掌がジャミルの顔を覆った。ぺたり、ぺたりと優しく液体を押し込む掌は硬く、ジャミルの顔を覆い尽くしてなお余りそうなくらいに大きい。
「もっかい塗るぞ」
一度離れた掌はジャミルが目を開けようとした所で再び目の前を覆い、大人しく瞼を下ろす。先程よりもとろみのある液体を纏った掌が押し付けられた後に、ゆっくりと輪郭をなぞるように優しく肌の上を滑る。眼窩の窪みや鼻筋の横まで丁寧に指先が液体を塗り広げ、最後に顎の下をするりと撫でたと思えば柔らかな感触が唇に触れた。
予想外の感触に思わず目を開ければすぐ間近で弓形に細められたエメラルド。おまけとばかりにもう一度唇が啄まれてから離れていく。
「ちょっと、真面目にやってくださいよ」
「ねだってるみてぇな顔してたからつい、な」
そう言って笑ったレオナにつられてジャミルまで頬が緩む。ただじっとしていればレオナ好みの化粧が施されるのだと無防備に身を委ねていたというのに、何処か甘い空気が纏わりついて心が浮ついていた。
離れたレオナがリキッドのボトルを取り、軽く降った後に親指の付け根の上に垂らす、その手慣れたやり方に思わず魅入っていると、普段はやらねぇよ、と言い訳めいた台詞が溢された。
そのまま塗られるのかと思いきや、もう一種類、色味の濃いリキッドの瓶が同じように振られてから数敵垂らされ、指先でかき混ぜて色を馴染ませた後にスポンジが取り出される。
「別に珍しいものでもねぇだろうが。目ぇ閉じてろ」
いつも上から見下ろすような男が、少しだけ困惑したような声を出すものだからますます意地悪してやりたくなる気持ちをぐっと堪え、はあいとお利口さんなお返事一つで言われるままに瞼を下ろす。
ぴた、と押し付けられたスポンジは柔らかくもひんやりとしていた。ぺたぺたと軽く叩く手付きは優しいが淀みはない。満遍なく顔の上をスポンジが塗り広げた後に大きくて柔らかなブラシが肌の上を撫でて行くのが心地よい。高級感溢れる少しの刺激もない毛先にとろりと身体が弛緩してゆく。
「っっひゃ!?」
その隙を待っていたかのように不意に耳朶をその柔らかな毛先が擽り、間の抜けた悲鳴を上げてしまった。弛みきった身体がぞわぞわと鳥肌を立てている。
「先輩!」
楽しげに笑い声を上げる犯人が腹立たしく、べしりとすぐそばにあった太股を叩いてやるが全く効果は見られない。
「良い声が出たなあ?」
「真面目にやってくださいって言ってるでしょう!」
「大人しくしてるのを見るとつい、な」
許せと言わんばかりに一度だけ音を立てて唇を啄まれる、たったそれだけで絆されて許してしまうのも癪だが、此処で争っていたらいつまで経っても終わらないのだと自分を言い聞かせる。
「ほら、続きをやってやるから目ぇ閉じろ」
既に二回も余計な事をされた身としては疑うような半目でレオナを見てしまうが、何もしねぇよ、とアイシャドウとブラシを持った両手を肩の上に上げてひらひらさせているのを見て仕方なく目を瞑る。
顎を捕まれた時は一瞬身構えるが、頬の上に掌が触れたと思えば目元を細く柔らかな毛の感触。睫毛の生え際からアイホール全体へと幾度かに分けて色が塗られて行く。目を閉じる直前に見たシャドウはゴールドのものだったが、離れる度にケースを開閉するような音が聞こえて今は何色を塗っているのか全くわからない。
今まで柔らかな筆先が撫でていた目尻をレオナの指先が少しだけ強く擦る。まるで、折角塗った色を拭うような。
「……失敗したんですか」
「うるせえな、大した事ねえよ」
茶々を入れた罰とばかりにむにと一度頬を摘ままれ、更に言葉を重ねようとするがすぐにまた頬にレオナの手が触れて瞼の上へと筆を滑らせるので唇を噤む。
修正は程なく終わったようで、離れたレオナが何かを開けたり閉めたり、化粧道具を漁る音を黙って聞いていると再び顎の下に触れた指先がジャミルの顔を持ち上げる。
「一度目ぇ開けろ」
言われるままに瞼を開けて見上げれば、思いの外真剣に見定めるようなエメラルドが真っ直ぐにジャミルを見下ろしていた。そのままレオナの指示のままに何度か目を開けたり閉じたりを繰り返す。レオナの右手にはアイライナーが握り締められていた。
「……よし、じゃあ今度はいいって言うまで目ぇ開けるなよ」
「はい」
大人しく瞼を下ろせばレオナの近付く気配。左手でジャミルの顎をしっかりと支え、頬に当てられた右手は先程と同じだが、目を閉じていてもわかるくらいに距離が近い。レオナの吐息がジャミルの肌に触れるような近さで、まるでキスをする直前のような距離なのに間にあるのは繊細な作業を前にした緊張感。ジャミルまでその緊張感に息を潜めて筆が触れる瞬間を待つ。
ひやりと目頭に置かれた筆。睫毛の生え際をなぞる筆先は迷いなく目尻へと滑り、そして離れて行く。反対側の目も同じように筆が肌を撫でた後は、ふぅ、とレオナの吐息が目元に掛かる。これが乾くまでは目を開けられないジャミルを他所にまた化粧品を漁る音。頬骨の上に、顎や額の生え際に、鼻筋の上に、幾度かに分けて滑る筆は目元の時よりもさらりと手早く行われ、幾重にも粉を重ねられた後でようやく目ぇ開けていいぞ、と許可が下りる。
乾き具合を確認するように幾度かぱちぱちと瞬きをしてからレオナを見上げれば真剣だった眼差しがゆるりと笑みの形に細められた。どうやら満足いく出来になったらしい。
「じゃあ今度は下だな。天井見とけ」
「シミでも数えてれば良いですか」
「それは後でな。そんな余裕あるのか知らんが」
「俺は先輩見下ろす方が好きです」
「そうかよ」
他愛の無い軽口もレオナがジャミルの下瞼を引っ張るように親指を宛がえばふつりと止まる。言われた通りに目だけを天井へと向けるが視界の端には真剣さを取り戻したレオナの眼差しが間近でジャミルを見ていた。細いチップが睫毛の生え際を埋めるように粉を乗せた後、赤い色をしたアイライナーが真ん中あたりから目尻へと向けて走る。こんなに近くまで顔を寄せているのにキスをしていないのがなんだか不思議だった。
「……こんなもんだな」
「終わりました?」
「あとリップも塗らせろ」
「すぐ落ちるのに?」
「落ちるような事をしなきゃいいんだろ」
「さっきから何度も悪戯していた人に出来るんです?」
「お前がして欲しそうにしてるからだろ」
人に責任を押し付けて唇を押し付けようとするのが気に入らない。性懲りも無く唇を寄せるレオナに咄嗟に手の甲で唇を守れば、丁度すっぽり掌にレオナの口元が収まり思わず笑い声が漏れた。
「したいなら、したいっておねだりしてください」
ジャミルの掌一枚挟んだだけの距離で見つめ合う瞳がすぅ、と眇められたかと思えばぬるりと掌に触れる温かく濡れた感触。意思を持ち、明確な目的を持った舌先が掌の皺をなぞり指の間へと潜り込もうとすればぞわぞわと期待が込み上げてしまう。
「……せめて、メイクが完成した所を見たいです」
圧し掛かるレオナを押し返さないのはジャミルの意思だが、あのレオナがジャミルにどんなメイクをしたのかは崩れる前に見たかった。だがそっとジャミルの両手を取ってシーツに押し付けたレオナがにぃ、と口の端を釣り上げていた。
「完成させたきゃ協力しろ」
「協力?」
「ヤった後のテメェに似合うメイクにしてやったつもりだぜ?」
「は、……」
「完成が見たかったら、思う存分善がって鳴けよ」
あまりに酷い言い草に思わず声を上げて笑う。ただレオナがジャミルにメイクを施したならばどんなメイクになるのかという健全な興味で大人しく待っていたというのに、実際には邪な欲望の下拵えでしか無かったのだ。まんまと気付かずにいたジャミルも間が抜けているし、そんなことの為にあんなにも真剣になっていたレオナも素直過ぎる。
「下心丸出し過ぎじゃないですか?」
「しねぇのか?」
「しますけど!」
姿見の前で快感に蕩けた自分の顔を見せつけられながら散々鳴かされる事になり後悔するのはそれから少し後の事。

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