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空箱

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名も無い男の話

クガネよりも遥か南、温暖な気候ではあるものの、いつ火を吹くかもわからぬ火山の中腹にある貧しい農村で、男は生まれた。麓まで降りればそこは温泉街として栄えているが、そこへ村の者が行商に降りることはあれど、険しい山道を掻き分けてまで余所者が村へ訪れる事は無い。何故そんな不便な場所に村があるのかと聞けば、戦で国を追われた殿様とその家臣の子孫がこの場所に隠れたのが始まりだとか、将軍様の御子を匿うためだとか、皆てんでばらばらな事を言うので真実はわからない。ただ、始まりも定かでは無いこの村には既に先祖代々が眠っている。いくら畑にする土地の少ない険しい土地であろうと、そのせいで誰も彼もが貧しい暮らしであろうと、先祖様の墓を見捨てて外に出るような罰当たりは決してしてはならないと男はよくよく言われて育った。長男であるお前は、血を、家を、土地を、墓を守って行かねばならないのだと骨の髄まで叩き込まれて来た。


さてこの家の長男である男だったが、物心ついた時には既に一つ下の弟と、二つ下の妹がいた。この弟とは喧嘩も良くしたが、一番仲が良く、何をするにもいつも一緒にあった。妹はおっとりとして器量が良く、次々に新たな兄弟を産んではすぐに畑仕事へ戻る母に代わり、幼い子の面倒を見る時に大変頼りになった。また、妹の愛らしい笑顔は男にも弟にも眩いものだった。他にも下にたくさんの弟と妹がいたが、この二人は男にとって格別に近しい存在であった。


――――――――――


小さな畑で取れた作物を、近隣の家や三日にいっぺんやってくる行商人と物々交換をして日々必要なものを揃えていた為に村から出ることは殆ど無かったが、年に一度の祭りの前だけは別だった。一年かけて集めた僅かばかりの銭を握り締めた父に、長男であるお前は家長の仕事を覚えておきなさいと言われて二人だけで山を降り、麓の街で祭に必要なものを買う。土気色した村とは違い賑々しく色とりどりの街並み、行き交う人々は皆笑っていて、一つの通りだけで村の全員が集まっても足りないくらいに人が多い。ここが天国なのかと幼い頃の男が思った程に麓の街は鮮やかであったが、同時にここは男には不相応な場所なのだと言うことも重々わかっていた。それでも、普段から気難しい顔をして近寄りがたい父に手を引かれ、夢見心地で歩くのは男にとって何よりの楽しみであった。
その、年に一度の買い物に男を連れていかずに初めて弟を連れていくと言われたのは何度目の祭の時期だっただろうか。弟は今まで男が独り占めしていた権利を得た事にいたく喜び、男は弟を連れていくのはまだしも、何故自分が置いて行かれなければならないのかと憤り、珍しく父に食らい掛かったが、口をへの字に結んだ父は頑なに譲らず、母からも冷えた声で嗜められるばかりだった。
結局、納得のいかぬままであったが父と弟は翌朝早くに麓へと向けて家を出た。はしゃぐ弟が何度も振り返っては大きく手を振るのを苦々しい気持ちで見送った記憶は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。


その日、父は帰って来たが弟は帰って来なかった。代わりに、産まれて初めて金平糖という菓子を食べた。舌がちくちくするほどに甘く、痛いとすら思うのに、少しすればまた食べたくなる、そんな、毒のような味だった。


――――――――――


次の年は、祭の買い物をする時期より前に、三つ下の妹がある日突然消えた。次は二つ下の妹が消えるかもしれないと怯えていたので、安心したのと同時に、兄弟が消えるのは変えられないのだと悲しい気持ちになった。この年は男が父と共に麓へ降りる事になったので、何故二つ下の妹は残り、他の兄弟が消えたのか聞いたが、「長女は村の皆の女だから、外には出さんのがしきたりだ」と吐き捨てるように教えられ、男は底知れぬ不快感を感じた。
新月の夜に、母が村の男達と何をしているのか、男はもう薄々わかっている。その夜ばかりは父が何処かへ出掛ける事も知っている。お裾分けをしに来た村の男達が、妹が美しく育っていることを誉めるその眼の奥で抱く感情を男も身を持って理解している。あの、可愛い妹が、やがてそうするのだということは知っていた筈だ。隣の家のねえやは、男が元服したらおいでと優しく頭を撫でてくれたし、一つ年上の幼馴染みの女は、今年最初の新月の日を境に何処かよそよそしくなってしまった。それは村では当たり前の事であり、男も今まではそれに何も思うことは無かった。
だが、あの、妹が。
男の唯一になってしまった妹が。
この年、父は男の手を引かなかった。男も、自分の足で父の背を追った。あれだけ楽しみにしていた筈なのに、麓の街の景色も朧であった。


――――――――――


男が「良いか」と聞くと、妹ははにかんだ顔で頷いた。それだけで良かった。抱き締めた体はとても華奢で小さく、育ち盛りの男の腕で簡単に抱き上げられるほどに軽かった。少し辛そうに眉を寄せながら、目があえば目元を赤らめて微笑む妹にふつふつと腹の底から暖かいものが込み上げる。幸せだと思った。幸せにしてやると思った。二人で幸せになれると思っていた。


――――――――――


妹が孕んでいることが親に知られたのは、妹の腹が隠しようもないほど膨らんで来た頃だった。父は激昂し、恥晒しは出ていけと、妹の髪を引っ付かんで殴ろうとするのを止めるべく間に立ちはだかった。母は、父の足にしがみついて止めようとしていた。
腹の子の父親が男であること、妹が追い出されるならば男も共に出ていく覚悟があることを伝えると、父は罰当たりめと毒吐きながらも、妹が家にいることを許したが、結婚前に孕んだ女なぞ外聞が悪すぎると、産まれる子は両親の子として育てることを約束させられた。妹の妊娠は無いものとされ、代わりに母が孕み、父の子を産んだこととなり、男にとっては我が子ながら兄弟という間柄になる。
本音を言えば、愛しい妹との間に出来た大切な子として腕に出来たかった。しかし、男一人なら人の道に拘らなければなんとかなったとしても、身重の妹と、更には産まれてくる子を抱えて生活出来るかと言われたら難しい。男の世界は、この村が全てだった。


その年の冬、妹は玉のような男の子を産み、命を落とした。未熟な体ではお産に耐えきれなかったのだと、母は乾いた顔で妹の頬を撫でていた。
妹が命懸けで遺してくれた子供の名はタンスイにすると母は言い、父はわかった、と頷いた。
それは、数日前に密かに男と妹が、大きくなった腹を撫でながら考えていた名前だった。


――――――――――


時が経ち、男はすっかり大人になった。今では父と同じように畑仕事に精を出し、一つ年上の幼馴染みを嫁にもらい、新月の晩には決められた家を訪ね、一人で祭の買い物にも行くようになった。あれからも兄弟は増え、そして減ることも多かった。男自ら、何も知らぬ兄弟を、掌に収まってしまうような僅かな小銭と引き換えにしたことだってある。村の男として極々当たり前の生活。分相応の幸せなのだろうと、言い聞かせながら生きて来た。
タンスイの「引き取り先」を決める話が出たのは、タンスイが十を数える頃だった。妹譲りの器量を持つタンスイならば、少し離れたクガネの花街でも通用するのでは無いかとツテを当たる算段をする父に、男は逆らうことは出来ない。だが愛しい妹が遺したタンスイを、顔も知らぬ男に組み敷かれるのは我慢ならなかった。
そうは言っても男に出来る事は限られていた。男がタンスイを連れて逃げるだけなら簡単だろう。あの頃とは違い、男には知恵も経験もある。だが両親は老い、男自身も嫁と子を持つ身だ。妹やタンスイへの愛情には勝らずとも、その全てを見捨てる事は出来なかった。


まだ夜明け前の、暗い時間に目を覚ます。まだ眠る家族を起こさぬように布団を抜け出し外へと出れば、玄関の前でタンスイが強張った面持ちで空を見上げていた。
今日、タンスイはこの村から逃げる。ありのままの全てを伝えた上で、本人が望んだことだった。男すら知らない土地へ、まだ村から一度も出た事の無いタンスイが、旅立つ。
普段はやんちゃで騒がしいタンスイだったが、この時ばかりはぐっとへの字に唇を結んで静かであった。用意しておいた幾ばくかの小銭と、道中での腹の足しになればと密かに乾かしておいた飯や味噌を渡しても、ん、と小さく頷いただけだった。
タンスイが村を出ると決めてから今日まで、何度も人目を忍んでは計画を立てて来た。男が出来る最大限の事はしてやったつもりだった。家の人が起きてしまう前に、送り出してやらなければならない。
最後にかける言葉を探している間に、静かに決意を固めた妹似の瞳が男を見上げる。目頭が熱くなるのを奥歯を噛み締めて堪えた。
「なあ」
「ん」
「最後に、いっぺんでいいから「とうちゃん」って呼んでくれねえか」
見上げる眼が不思議そうに瞬き、それから躊躇いながらも「とうちゃん」、とタンスイが言った。それだけで十分だった。それだけでもう、男に心残りは無かった。あの日の妹よりもずっと小さな体を抱き締める。細っこく、骨ばった身体が熱かった。
「生きろよ」
折れんばかりに強く抱きしめ、離してやる。ず、と鼻を啜ったタンスイが、こくんと大きく頷いた。男も、ぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱雑に拭った。
「行け」
これ以上は離れがたくなる。そう感じたのは同じだった。短く、告げた瞬間に背を翻してタンスイが走り出す。小さな背中はすぐに闇に呑まれて見えなくなった。

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