休み時間、廊下で見知った背中を見つけたから後ろから肩を掴もうとした、たったそれだった。
乾いた音を立てて腕が弾き飛ばされると同時に突き刺すような鋭い眼光が振り返り、だが相手が諏佐と認識して半開きに開かれた唇は数度、開閉を繰り返した後にへらりと浅い弧を描いた。
「堪忍なあ、驚いてもうて」
なんて笑う姿はこの一瞬の出来事を日常の些事にしようとしていたが、彷徨う視線が腑に落ちない。
まだ今吉と諏佐は入部時に出会って以来、然程時間が経っているわけでは無いが、いつもはしっかりと目を捕らえて話す男だと諏佐は知っている。しゃんと背を伸ばし、顎を上げて見上げる双眸の強さを知っている。
重ならない視線と少し丸められた肩は何処か頼り無く揺れていて、大丈夫か、と問うつもりで再び手を伸ばしたのに他意は無かった。むしろ何も考えていなかった。
ひ、と。
小さく聞こえたのが今吉の喉から発せられた音だとは、血の気を無くして青白くなった顔を見るまで気付けなかった。思わず触れる寸前で指先を止めた諏佐の前で、まるで石像のように固唾を飲んで指先を見つめる細い目に浮かぶのは紛れもない恐怖で、それなのに避けるでも無くただその恐怖に身を委ねている様に諏佐はすまんとただ謝る事しか出来ず、居場所のなくなった指先を握り締めて腕を下ろす。先ほどよりもぎこちなく戦慄いた唇は「堪忍な」と呟いた気もするが余りに些細な音は確信に至らず、固まった身体をなんとか引き摺るようにして歩き出した今吉の背を、諏佐が数歩足を運べば簡単に追いつけそうな鈍い足取りをそれ以上追えずに諏佐は立ち尽くした。
「いやあ、授業中にめっちゃ怖い夢見てん。まだ寝惚けてたみたいでエラいビビってもうて」
堪忍なあ、と放課後、部室に入って来るなりそう謝罪する今吉はへらりと力の抜けた笑顔で普段と変わらず、だが普段と変わらないからこそその言葉の信憑性に欠けた。
バスケ部の同じ学年同士という事で今吉と諏佐の仲はそれなりに良いと思う。思う、といまいち確信に至れないのは未だに諏佐が今吉の事を掴みきれないからだ。短い期間でも会話を重ねれば重ねる程に相手への理解を深める筈なのに、そう少なく無い今吉との交流で諏佐に分かった事と言えば「今吉は胡散臭い」、という事だけだ。何処が、と聞かれたら困ってしまうのだが、今吉の言葉が、表情が、相手や状況に合わせて作っている上辺だけの物に見えるというのが主な理由だろうか。
そんな胡散臭い男の先ほど見せた怯え。尋常では無いあの様相が、ただ夢見が悪かったと言う理由で片付けられるわけが無かった。何か、別の。今吉を怯えさせる何かとは。
ちらちらと一つ、理由が思いつかないでも無いが高校生にもなった男がそんな事で。
そもそもあれだけ怯えていたのなら、あえて聞かずに今吉の言葉にただ納得しておいてやった方がいいんじゃないか。
ぐるぐると脳みそを高速回転させていたら急に膝から力が抜けてロッカーに思い切り額をぶつけた。
「ぃでっ…!?」
「なん、人がせっかく謝ってるのに無視かいな」
振り返れば細い両目を更に細めて見上げる今吉の姿。
鈍く痛みを訴える額を押されながら膝かっくんされたのか、と納得すると同時にあれ?と首を捻る。
「お前、人に触られるの怖いんじゃないのか?」
聞くか聞くまいか悩んで居たのに驚いてあっさりと諏佐の口から問いが飛び出る。
一瞬、目を見開いた今吉は三回、瞼を上下させてからへらりとまた口角を上げた。
「やから、言うてるやん、さっきはめっさ怖い夢見たんやって」
考え過ぎやで諏佐ぁ、と証明するように一度ばしんと肩を叩いて自分のロッカーへと向かう背中は先程の怯えなど微塵も感じさせないくらいに頼もしいが何かが腑に落ちない。今吉、と追いすがるようにして伸ばした指先は図らずも休み時間と同じように背後から肩を掴み、
「っっもうホンマいい加減にしぃや!!!」
本日二度目の乾いた音は震えた怒鳴り声に掻き消された。
初めて聞く今吉の感情を露わにした声に漸く、諏佐は自らの失敗に気付いた。
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つ、と背中に指先が触れる。
かろうじて触れていると言うような仄かな感触が少し戸惑った後に下へと滑り落ちた。
正直、くすぐったい。
けれど諏佐はぴくりと小さく肩を揺らすだけに留めて指先の次の動きを待つ。
まだ余り物を置いていない諏佐の寮部屋は暖かな日差しが差し込んで、ただじっとしているだけだとだんだん意識が睡魔に乗っ取られそうになる。
だが傍から見ればじゃれているだけに見えるかもしれないが、背後からは凄まじい緊張感が伝わって来て眠るに眠れない。
こみ上げた欠伸を噛み殺し、意識して深い呼吸を繰り返していると、一度離れた指先が今度は手の平に変わって、どす、と勢い良く背中を突いた。
「ぐふぉ、…」
「わ、堪忍な諏佐…」
きっと意を決して手を伸ばしたら力加減を間違えてしまったのだろう、焦った今吉の声に大丈夫だ、と静かに息を吐いた。
これは思っていたよりも時間が掛かりそうだ。
事の始まりは、うっかりと諏佐が今吉の肩を掴んで怯えさせた例の事件からだった。
あのあと、またしてもその場から逃げ出した今吉を、諏佐はやはり追いかけられなかった。
どうするべきなのか全くわからなかったのだ。
結局、部活が終わっても姿を見せ無かった今吉を心配しなかった訳ではないが、そもそも諏佐が原因なのだ、たぶん。
今まで飄々とした態度を崩さず、感情の揺れ等微塵も見せた事の無かった今吉の明らかな拒絶は諏佐にそれなりの衝撃をもたらしたようで、これからどんな顔で今吉に接したらいいのかがわからない。
同じ寮生として、同じ即レギュラーに選ばれそうな新入部員として、三年間を共にするなら仲良くなっておきたいと思っていたのに。
寮に戻り消灯時間を過ぎても気付けば今吉の事を考えてしまって寝付けなかった。
明日は部活に来るだろうかとか、もし部活に来たとしてもどう謝ればいいのだろうとか、結局何故あんなに怒っていたのかわからないだとか。
ぐるぐるとただ同じ疑問を頭の中で捏ね繰り回しては、実際に今吉に会ってみないとわからないという漠然とした結論にしか辿りつかない。
けれど、そんなすっきりとしない結論では納得出来ないのか、最初からまた頭の中で捏ね繰り回す事になる。
何度目かの寝返りを繰り返し、一度水でも飲んで落ち着こうとベッドから起き上がった時、タイミング良く扉をノックする控えめな音が響く。
たった二度の、静まり返った部屋だからこそ聞こえるようなそれは消灯時間も過ぎているのだし無視することも出来たのだが眠っているのならまだしも起きているのなら知らんふりは気が引ける。
諏佐は少しだけ思案すると扉へと向かった。
「寝とった?」
扉を開くなりへら、といつもの胡散臭い顔が、まるで今日一日のあれそれなど何も無かったように立っていたので思わず諏佐は反応に困ってしまった。
いや、とぎこちなく首を振るのが精一杯で、ほな中に入れてぇや、と脇を摺り抜け部屋へと勝手に入る今吉を止めるタイミングを失ってしまう。
寝付けない原因が、自らやってきた。
扉を支えたまま暫し唖然と今吉の背中を見送った後、溜息一つ落として諏佐は今吉の後を追った。
これが解決の糸口になるのか、それとももっと大きな問題になるのか期待と警戒を持ちながら。
「今日あった事を全部忘れて今まで通りの日常に戻るのと、今日のアレソレの訳をちゃんと説明する代わりに一生ワシの下僕になるの、どっちがええ?」
今吉が先にベッドに腰を落ち着けてしまったので、なんとなく距離をとって床に座るなり問われた内容に諏佐は今日何度目になるかもわからない間の抜けた顔で今吉を見上げた。
間接照明の薄明かりの中で、当の本人は相変わらずの口角だけを吊り上げたような笑みでじっと諏佐の反応を待っている。
「あー……下僕、ってなんだ…」
「下僕は下僕やん?ワシの手となり足となりワシの意のままに顎で使われる簡単なお仕事」
「いや、そんな事じゃなくて…なんで下僕なんだ?」
「そりゃあ、親にも言えへんかったワシの秘密を知るんやから、相応の対価が必要やん?」
本来聞くべき所はそんなことじゃない気がするのに、余りにも今吉が普段通り過ぎて頭がついて行かない。
いや、今日一日ずっと思考が空回りしている。
余計な事は眠れなくなるくらいには考える癖に肝心な時に脳が職務放棄をしている。
それもこれも、全ては目の前で笑っている男のせいで、あれだけ怒らせたのだからとこっちが悩んでいたというのにわざわざ部屋までやって来るわ、それで怒りをぶつけるなりもう話し掛けるなと絶縁宣言でもするのかと思いきや、笑顔で訳のわからない二択を提示してくる。
なんだか段々考えるのが面倒になって来た。
悩んだ所で、諏佐の想像の一歩も二歩も外れた反応が返って来るのだから頭を使うだけ無駄な気がする。
「…お前は、どっちがいいんだ?」
だから率直に、思ったままを問い返せば細い双眸を瞬かせる今吉の姿。
「今はワシが聞いてんねんで」
「だが俺はお前の意見も聞いた上で返事をしたいと思ったんだ」
「そんなん、今日の事は無かった事にしたいに決まっとるやん」
「本心から言っているのか?」
考える事を放棄して、ただ条件反射のように言葉を並べていたら今吉からの返事が途切れた。
一度、二度、開いた唇が音を発しないまま噛み締められる。
探るような視線が諏佐を真っ直ぐに見据えるが、諏佐としては何も考えていないので出来る事など何も無い。
そもそも、此処で今吉が頷いてくれてさえいれば、そうかそれならわかったと、今日の事を忘れる方を選んで終われるのに。
つまり、此処で頷けないくらいには、今吉は諏佐が下僕になる方が好ましいということか、と結論つけて諏佐は我に帰る。
また、今吉の事を考えてしまった。
けれどわかってしまうと無下に見捨てる事が出来なくなると言うか、目の前に困っている仲間が居て、自分に助けを求めているような気がするのに放って置ける程、ヒトデナシでは無いつもりだ。
唇を噛み締めたまま何を考えているのかわからないが黙り込んだ今吉をぼんやりと眺めながら諏佐は一つ、息を吐き出した。
「下僕…と言うのはなんだか違和感があるが。お前が望むのなら、俺は下僕になってやってもいい」
あんまり酷い無茶振りは勘弁してくれよ、と付け足しながら今吉を見上げると、そこには泣き出しそうな、怒りを爆発させる寸前のようななんとも言えない顔でこちらを凝視する瞳があった。
「……なんやそれ。自分、ほんまに頭動かして物言ってるん?」
「お前それ微妙に失礼じゃないか」
「せやかて、絶対、後で後悔すんで?」
「お前がそんな顔してなきゃ、俺だって今日の事を忘れる方を選ぶ」
笑顔を忘れて這うような声でしか喋れない今吉がただ縋りたいのを必死に堪えてるように見えてきて困る。
自分がどんな顔をしているのか言われるまで全く意識していなかったのか、視線をさ迷わせた後に俯いてしまったから今どんな顔をしているのかは見えない。
皆が寝静まった寮の一室とは静かな物で、黙ってしまった今吉を前に流れるのは無言の時間だ。
これ以上、諏佐から言える事は無いし、後は今吉がどう決断するのかを待つしか無い。
「…ちゃんと、忠告はしたで」
暫くして、漸くぼそりと、脅しているのかと紛うような低音が溜息と共に吐き出される。
だが、次に顔を上げた今吉は、は、と乱雑な息を吐き出して何か吹っ切れたようだった。
「しゃーないから下僕にしたる。しゃーなしやで。」
どうやら諏佐は今吉に望まれたらしい。
上から目線の言葉に思う所が無いわけでもないが、其処を言った所で睡眠時間が削られるだけなので黙っておく。
「ほな、説明やんな」
荷が下りたような、少しばかり調子を取り戻した今吉の説明は予想よりもかなり簡略化された物だった。
去年、ちょっとした?事件に巻き込まれてから人に触られるのが怖い事。
狭い所、暗い所も怖いし、人が居過ぎても居なさ過ぎても駄目だと言う事。
「…え、それだけ…?」
「それだけってなんやねん、良いガタイの男がこんなんなってるてバレたら恥ずかしいやろ」
「いや、それはそうなんだが…」
交換条件が下僕と言ってくる位だからよっぽどの重い話があるのかと思っていたのだが。
余りにあっさりとし過ぎて逆になんだかよくわからない。
「けどお前、部活の時は普通にしてただろ。」
「慣れた。人がそこそこ居って、明るくて、広いやん?全く平気とは言えへんけど、そこまで構える程でも無いっちゅーか」
「…いや、けど、それなら今日、廊下で会った時も人がそこそこ居て明るくて広かったと思うんだが。」
「……やから、言うたやん、授業中に怖い夢見たんやて。」
つまり、事件?とやらの夢を見て過敏になっている時にうっかり触ったからこその反応だったという事か。
部室の時は狭いと言えば狭い場所で二人きり。
バレないようにと無理に触れるアピールをしたものの、結局諏佐から触られて耐えきれなくなったのだと勝手に納得する。
「説明はこれくらいでええか?したら次は本題なんやけど」
そして冒頭に戻る。
下僕になれと言うのは今吉の故意に間違えた言葉選びであって、協力者と言うのが正しいのでは無いだろうか。
要は今吉の、触られる事に対する恐怖心を克服する為に手を貸せと言う事だ。
二人きりは怖いが、人が居る所で出来るような事でも無いのでせめて明るい時間に。
触られるよりは、自分から触る方がまだマシだから諏佐は背中を向けたまま動かない事。
思わず素直に背中を差し出してしまったが、今吉が何かしらの進展を迎える前に自分が寝てしまいそうだ。
未だ衝撃を残す肺に空気を満たしながらふと思いついて諏佐は振り返った。
「指とか、掌とか。ちまちましてねぇで思い切り抱き着くくらいしてみたら早いんじゃないか?」
「ちまちまって人の努力をお前な…」
「いや、プールの飛び込み台って、端に立って構えてから飛び降りるよりも助走つけて勢いで飛ぶ方が怖く無かったりするじゃねぇか。」
諏佐の思いつきは案外今吉にとっても納得の行く提案だったらしい。
前向きぃや、と真剣な声で促されて言われるがままに前を向く。
と。
どす、と先ほどの一点集中の衝撃よりは軽く、だがそれでも十分な勢いで持って背中にぶつかって来る身体。
抱きつく、までは至らなかったのか諏佐の腕の横からぴんと伸ばされたまま小さく震える両腕が今吉の心境そのものなのだろう。
すぐに離れるかと思いきや案外張り付いたまま動かない今吉の体温は日差しと相まって余計に眠気を誘う体温だが背から伝わる小さな振動が妙に落ち着かない。
指先まで強張っている腕に触れて宥めたくなる衝動をなんとかして堪える。
「諏佐ぁ……」
震えているからなのか、それとも本当に涙でも浮かべているのか。
余りにも弱弱しく涙声のような声で呼ばれて諏佐は今になって後悔した。
何故自分はあの夜、下僕になると言ってしまったのか。
この胡散臭い顔で、身長も180cm程度あるガタイの良い男を可愛い等と思ってしまうとは。
妙な扉を開きそうな自分の未来を憂い、諏佐は大きくため息を吐きだした。
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