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空箱

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狩る

大きな獣が地面に落ちていた。
課題で出された調合に必要な素材の名と形を確かめる為に訪れた植物園の、奥。夕暮れ色に染まりつつある亜熱帯ゾーンの道端。
本当に何の変哲もない、人が歩くための道の端にその獣は落ちていた。体調不良で倒れているのかと最初は驚いた物の、穏やかな寝息を聞いてしまえば呆れるより他ない。
レオナ・キングスカラー。
一国の王子であり、サバナクロー寮の寮長、そしてマジフト部の部長。その目立つ存在はジャミルでも知っている。実際に言葉を交わしたのは以前食堂で会った時が初めてだというのに、その僅かなひとときでジャミルの核心に唯一踏み込んで見せた男。
隠した牙が誰にもバレていないと信じられる程、ジャミルは楽観主義ではない。だが良くも悪くも自己中心的な人間が多いこの学園において、ジャミルの腹の底を垣間見る事が出来るような賢い人ほど余計なものには手を出さない。学園のトップたるクロウリーが良い例だ。賢しく、善人を装い、トラブルになるべく自分の手は汚さずそっと他人へと押し付ける。
果たしてこの獣は愚かな王か、それともジャミルをも凌駕する賢人か。
こうして目の前に立ってもなお穏やかな寝息は途切れない。天敵を知らずに育った王者の怠慢がジャミルを苛つかせる。だが同時に、その慢心を許される傲慢さが美しいとも思う。
美しさは、武器だ。持っているだけで他人よりも一枚も二枚も多くジョーカーになり得るカードを持てる。ジャミルは美しさの価値を知っている。それが時に余計な諍いを生む事も。
惹かれるようにしゃがみこみ、間近で見た寝顔は案外幼い。それとも柔らかいとでも表現するべきだろうか。鮮やかな緑を隠す瞼の先には長い睫毛が生え揃い、通った鼻筋と、分厚く大きな唇。カリムが出先で見つけた野生生物を気に入り持ち帰って飼いたいと騒ぐ気持ちが少しだけ分かった気がした。この獣を、手懐け、飼うことをつい夢想してしまう。
きっと、これは野生では生きていけない生き物だと、誰かの手に世話を焼かれ愛情を注がれなければ生きていけない生き物だとジャミルは知っている。一度人の手から餌を与えられる事を知った生き物は野生に帰る事が出来ない。この獣もきっと、生涯、野生を知る事は無い。ジャミルと同じだ。
不意に、穏やかだった寝顔が歪み、眉間に皺が寄る。ぴくりと獣の耳が震え、そうしてゆっくりと重そうな睫毛が持ち上がり現れるのは不機嫌を隠しもしないエメラルド。
「――……何か、用か」
地を這うような低音がジャミルへと向けられる。警戒を露わにした威嚇の唸り声。その威圧感はさすが王族とでも言うべき物だというのに、何故かジャミルの心は癒され、ゆうるりと口角が上がるのを自覚する。
「いえ、別に。お構いなく」
用は、無い。足を止めたのだって、ただその美しさに惹かれただけで他意はない。眠りを妨げるつもりもなければ、とうの昔に目を覚ましていた癖に寝たふりをすることで煩わしさから逃れようとする怠惰さを許してやるつもりもない。
「視線が煩ぇんだよ。用が無いなら、失せろ」
「用があれば居てもいいんですか?」
「……口の減らないやつだな」
のそりと、身を起こす獣の、無言の圧力。今まさに導火線に火をつける一歩手前に居るのだという事を否が応にも知らしめるピリピリとした緊張感。ふるりと、身体が震える。これは怯えではない。今まで何を求めていたのかもわからずにただ求めていた物を漸く見つけたような歓喜の震えだ。
「……見惚れてたんですよ」
「ああ?」
「以前食堂でお会いした時にも思ったんですけれど、レオナ先輩、綺麗ですから」
「は、良く言うぜ。そんな目ぇしやがって」
レオナがくぁ、と欠伸を零すと、殺気にも近い空気が、和らぐ。敵意が薄まり、代わりに向けられたのは検分するような、眇められたエメラルド。真っ直ぐにジャミルの瞳を捉え、それから頭からつま先まで一瞥した後に再び眼へと、ふん、と鼻を鳴らして笑う。
「目。……それから多分、声もだな。魔力の乗りやすい声してやがる」
突然、レオナが何を言い出したのかがわからず眉を寄せるジャミルとは裏腹に、レオナが獣の牙を見せつけるように口角を釣り上げる。
「そうやって、何人にユニーク使って来た」
「な、……に言ってるんですか……」
「そんだけの魔力持ってりゃぁ、さぞ思い通りに出来るんだろうなあ?」
咄嗟に誤魔化そうとするも何も思いつかない。まだレオナは核心をぼやかしたまま、ただ鎌をかけているだけだ。その鎌がまさにジャミルの首を捉えているからこそ、言葉を失う。愚かな獣を装った賢人。平静を取り繕いながらも心臓痛い程に脈打っている。だが不思議と焦りはなかった。むしろこの高揚感は、胸の高鳴りと表現するに相応しい。
「……レオナ先輩は、俺の思い通りになってくれますか?」
膝をつき、そっと身を乗り出す。獣に触れるには、驚かさないように低い位置からゆっくりと。カリムの教えの通りにすればレオナは眉を上げつつも逃げる事は無かった。
「出来るもんなら、やってみりゃあいい」
挑発するような、見下す笑み。ジャミルと目を合わせてはいけないとわかっている癖に深みを増したエメラルドはひたりとジャミルを見て居た。ジャミルだけを見て居た。決して負ける事は無いと確信している強者の余裕。
「それじゃあ、偉大なる先輩の胸をお借りして」
応えるジャミルの口角も自然と吊り上がる。地面に手を付き膝でにじり寄るようにして更に距離を近付ける。鼻先が触れ合う程の距離になってもレオナは動かない。お互い視線を逸らさないまま、目に、少しだけ力を込めてやる。
そうして、視線を重ねたままにそっと唇を押し付ける。
「……ぁ?」
呆気にとられたような、間の抜けた声を零す唇の狭間に舌で一舐めして下唇を吸う。そのまま、更に角度を変えて深く唇にかぶりつこうとした所で、横から首を押されて地面へと薙ぎ倒された。的確に首を片手で捕らえ、地面に押し付けられて苦しい。抗う間も無く腹の上に跨られて身動きが取れぬ程にマウントを取られているというのに、気分が良い。思わず声を上げて笑う。
「テメェ、なんのつもりだ」
遥か高みから見下ろすレオナのエメラルドが獲物を狙う時のようにきらきらと輝いていた。喉仏を押さえ付ける掌が熱い。
「あっはは、言ったでしょう、見惚れたんだって。レオナ先輩の目の方がよっぽど人を操る!」
「ぬけぬけと良くも言えたもんだな」
「ああ……それとも、ファーストキスでした?それなら申し訳ない事を、」
ぐ、っと首に掛かる圧が増し、牙を見せつけるように唇を開いてレオナの顔が近付いて来る。そして捕らえた獲物の息を奪うようにがぶりと唇に噛みつかれ、思わず痛みに緩んだ唇の合間から肉厚の舌が潜り込んでジャミルを味わう。
「んんぁ……っ、」
ただでさえ首を圧されて苦しいのに吐息さえ逃さぬように貪り尽くされて酸素が足りない。念入りに隅々まで舐め尽されて、奪われて、ジャミルを満たす。
捕らえた、と思った。
逃さぬように両手でレオナの首筋に縋りつけば、ぐるると満足気な獣の唸り声が聞こえた。

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